2017年5月5日金曜日

実家帰省後日譚Ⅳ 3代目、親父の話

(For English users, there is an English entry: here)
この日は5月1日、親父の法事が前日に終わり、かあちゃんと高畑と呼ばれる元山でも一番高いところにある畑を耕すことにした。水がないわりに水はけが悪いこの土地は雨が降るとぬかるんで耕すのが大変になるのだが、連日の天気に恵まれて耕すには絶好のコンディションとなった。


親父の話を語り尽くすのは不可能にも思えるが、まず確実に言えることは死ぬ直前になるまで俺と親父は仲が悪かった。どのくらいか?と言われると喧嘩をして俺は親父の足の骨を柔道技で投げて折り、足が折れた直後に親父は俺のおでこに強烈なストレートを打ち込み1.5cmぐらいのたんこぶを作ったことがあるぐらいである。目の前で火花が散ったという形容がそのまま当てはまる程強烈なストレートだった。親父め。
ごくごく正直に、ひどく理不尽(と当時は思っていた)で、「こいつを殺さないと俺はいつか殺される」と真剣に考える程だった。
最近、かあちゃんと話していて兄貴は親父にはそれほど似ていなかったのである程度冷静になれていたが、俺はあまりにも親父に似すぎていて感情的になっていたように思うと言われたことがある。思い返してみると、俺と親父はかなり似ていたようだ。
喧嘩して以降、親父と話すことはほぼなくなったが、高校3年の4月時点で偏差値34だった俺が偏差値60ぐらいまで上げてほとんど退学になりかけていた高校を奇跡的に卒業し、さらに現役で地方の大学に受かった時の事、滑り止めだったので浪人したいと思っていたところ、親父から「頼むから受かった大学に行ってくれ」とお願いされたことがある。
今から思うと親父が俺に何かを頼んだのはこれを合わせて2回のみだった。
(写真解説:高畑の俺が草刈りをした後をついて、かあちゃんがトラクターで耕していく。トラクターの運転は親父か、こないだ俺に丸坊主を喰わせた叔父に頼んでやってもらっていたのだが、親父が亡くなった時にかあちゃんが俺に教えてほしいと頼み込み、自分でできるように練習したのである。67にして新しいことに挑戦し、とても満足気にトラクターを運転するかあちゃんである。)


親父とはほとんど話す機会もなく大学を卒業することになり、卒業式が終わって打ち上げに行く準備をしていた時、取り乱したかあちゃんから電話があった。かあちゃんは元々看護師で救急医療をしていたので、素手で心臓マッサージ(実際に開胸して心臓を直接マッサージするわけだ)していたほど肝が据わっているのだが、この時は本当に取り乱していて事態が理解できるまで20分はかかったと思う。曰く、親父がその日の朝、真っ黒い血を吐血し病院に行ったところ末期がんで余命半年だと言われたというのだ。
半年前に健康診断を受けた時には影一つなかったわけだから、半年で急激にガンは成長し、肺の5分の3を侵したことになる。医師が言うには半年生存率は5%を下回るはずだとのことだったので、「とうちゃん、あうとーっ (´゚д゚`)」な状態だった。
俺は兄貴に連絡し、即座に借りていたアパートを引き払い実家に戻るように命じた。
3日後に実家に帰った俺と兄貴はすぐに親父に会い、親父から「治療はしない」旨説明を受けた。そのまま叔父の2家族と温泉巡りをして、ちょっと早いお別れ会をした。
(写真解説:耕した翌朝の写真だが、耕し終わった畑である。途中でマシントラブルがあったため半分から先は俺が耕すことになったが、6月にもう一度耕してササゲという小豆に似た豆と小豆、黒豆を植えるそうである。かあちゃんは10数年間の間親父の看病の合間を縫ってササゲを小規模で実験的に植えてきたが、いよいよ畑全面を使って本格稼働することにしたのだ。手間がかからない小豆類は高齢化の進んだ島の爺婆でも作ることができ、ササゲは赤飯に最適というマーケティングを想定しているらしい。)


温泉をいくつも周り、最後に温泉宿で宴会をした時、ある程度宴もたけなわの状態で見つけた囲碁盤で当時覚えた囲碁をしようということになり、親父に囲碁ができるか聞いたところ打ったことはないができると言う。ここは積年の恨みを平和的に晴らす時が来たとばかりに水を飲んで正気に戻り、全身全霊を以て叩きのめしにかかったが、結果は盤の4分の3を占領されて俺が完敗することになった。
打ったことがない囲碁をどのように覚えたのか親父に聞いたところ、「仕事で出張している時、朝早くに目が覚めてしまい、眠れないことが多かったのでホテルで無料でもらえる新聞を端から端まで読んだがそれでも時間が余った。余ったので暇つぶしに新聞の囲碁欄を眺めていたら自然と身に付いた」という。つまりこれだけを見て覚えたと言うのだ。


思えば親父は恐ろしく頭がいい人だった。地頭の良さでは俺も相当に自信があるが、親父が逝った今、親父は絶対に敵わない存在になった。
そもそも親父は中学を留年している。理由は漁の手伝いで出席日数が足りなかったからだ。底引き網漁船の網が海底に引っかかった時に、水深15mの底まで船の碇を抱えて潜って網を解放するということをしていたのだ。話は逸れるが親父が手術をした時に、二つ対になっている臓器の一つが破裂したまま長期間放置された跡が見つかったと聞かされたことがある。当時同じ作業をしていた親戚のおいちゃんも「耳から血がでよった」と言っていたから、相当めちゃくちゃなことをしていたに違いない。
中学を4年かけて卒業した親父は、海洋関係の専門学校(名前を忘れたが)に入学し、主席で卒業してしまったらしい。その後当時日本でも有数の船舶関係の会社に入社し、船乗りになったそうだ。主席で卒業はしたが、問題を起こして何回もうちのじいちゃんは呼び出しをくらっていたらしい。その度にウニの瓶詰を持ってお詫びに行ったそうだが、問題を起こしたというのが「後輩が先輩にいじめられて学校を辞めそうになったのを止めるために、2学年全員を引き連れて学校を脱走した」とかそういう理由だったらしい。じいちゃんは人に何かを誇ることをしない人だったが、その時だけは妙に誇らしげに話していたのを思い出す。
船乗りだったころの親父は世界各国を回り、下の写真の腹巻(イースターエッグの下に敷いているのが親父の腹巻である。3人兄弟に近所のおばちゃんが作ってくれたらしい。今は俺のものである)に数百万入れた状態でマフィアみたいな人に追い回されたとか放蕩の限りを尽くしたらしい。当時の親父を知るかあちゃん曰く、本格的に宵越しの金を持たなかった人だったという。


親父の頭の良さを伝えられる別の逸話としては、東京でかあちゃんと会い、子ども(兄貴)が産まれた時に「あまりにかわいい」からと言って相当な収入を得ていた船会社を離れ、いろんな職を転々とした後(ホテルマンとか料理人とかをしたらしい)地元に近い小都市でとある電設会社に就職し、そこから電設関係の免許を全て取ってしまったことである。聞いたところによると当時全部の免許を持っている人間は日本に10人程度しかいなかったそうだ。
兄貴が高校生の時、丁度何かの試験準備をしていた親父は兄貴に頭を下げて三平方の定理なんかを教わっていた。めちゃくちゃにスパルタだった親父でも実の息子に頭を下げることができるのか、と驚嘆したことを覚えている。
(写真解説:畑を耕した後、家の横で倒れ掛かっていた木を切ったので薪にしてほしいと母ちゃんに頼まれていたので薪割りをした。
結構大変な作業なので、一日丸太一本のペースでの巻割り作業である。)


お別れ会をしたものの、親父をあきらめきれないのはかあちゃんだった。俺の兄貴は医者、俺はそこまで得意ではなかったもののPCで検索などが当時からできたので、民間療法で完治できるものはないか調べてほしいと言われ、キトサンと霊芝と言うサプリメントを見つけ出した。かあちゃんはそれから親父をうまいことだまくらかしてそれを一日3回15錠のペースで飲ませ始めた。おそらくは、親父も付き合ってやるぐらいはしたほうが良いと思ったに違いない。が、食後にそれを飲み続けるのは辛かっただろうと想像する。
それから半年後、他の治療を一切していなかった親父の肺から影が消えた。別に効くとか効かないとかはわからないが、実際に見せられたレントゲンからは影が見事に消えていた。
が、世の中そんなにうまく行くわけもない。その3か月後、やっぱり急速な速度で成長した肺がんが見つかり、再び余命半年と宣告されることになる。恥をかかされた医者の怨念に違いない。
一度治った時にはやはりうれしかったのだろう、親父はその時、治療をすることを決めた。放射線治療と化学療法を行った後、兄貴のつてでガンセンターに受診に行き、そして外科的に切除することにしたのだ。
医師免許を取得した兄貴は手術に立ち会うことが許された。兄の話では首を横から半分に切り、横隔膜まで半分に上半身を開けた状態で肺の5分の3を切除して手術は成功した。
手術成功後、当時の看護師の方に「おめでとうございます。これから夢は何かありますか?」と問われた親父は「漁師になる」と言って鼻で笑われたそうである。
それからしばらくして正社員を辞めはしたものの、持っている免許がないと仕事が受注できないためコンサルティング職みたいな名義貸しをすることで月給をもらえるようになった親父は、小都市に買っていた家を売りさばいた金で大型の船を800万円で買い、実際に一本釣り漁師を始めたのである。
肺を5分の3切除したものの、親父は若い頃測った肺活量で測定器を完全にひっくり返したため測定できる最大の8,000ccぐらいだったと言っていた。つまり単純計算で3,200ccになったわけだが、それでも常人以上の肺活量である。老いたとは言え体力は相当にあったのだろう、それから何度か死にかける度にかあちゃんの救命行為で復活した親父は実に術後10年余りにわたり一本釣りを続けた。親父が作った仕掛けは出来が良かったらしく、今でも親父の編み出したいくつかの仕掛けの作り方が角島の漁師達に引き継がれているそうである。
色々あって縁遠くなっていた実家のかあちゃんからある日、電話を受けた。その半年前に親父が危篤と言われて「死んでから言って来い」と言った俺に、この時ばかりはかあちゃんは泣きながら「お父さんの意識があるうちに、最後の別れをしてあげてくれ」と俺に頼み込んだ。5年ぶりぐらいか、親父に会った時どんな顔をして会ってよいかわからなかった俺に、親父は開口一番「かわっちょらんの。かあちゃん、のう、かわっちょらんのぉ。」と俺には見せたことがない満面の笑顔と共にのたまい、喧嘩になるだろうと想像していた俺の出鼻をくじいて涙腺を一撃で粉砕した。
今これを書いている時でさえ、なぜか涙が止まらない。親父は俺に「船をついでくれはしないか。」とお願いした。これが親父がたった2度、俺に頼みごとをした最後の1回である。東京で暮らしている俺には即断ができず、どこの家庭でも後継ぎが都合よく見つかるわけではないからと言って断った。寂しそうに笑った親父は、ひとしきり死後のことについて俺に指示を出し、俺はたった3時間の間に脱水してしまうのではないかと思うほど男泣きに泣き、そのまま東京にとんぼ返りした。
その1年後、朝5時に親父の訃報を聞いてその日に実家に戻った俺は、親父の穏やかな顔を見て泣きながらも何故かとても安心した。
先日実家に帰っていた時、かあちゃんに聞いたところによると俺が帰った後に、かあちゃんが親父に「お父さん、私はもう一人で生きていける。頑張るよ」と言った時に親父はこれまでにないほど喜んだらしい。そんな親父は生前、「やりたいことは全てやった」と言っていたらしい。
(写真解説:斧を振り下ろしたところ。金づちや斧で衝撃を受けると前腕が非常に鍛えられるのがわかった。どこかで役に立つのではないかと考えている。)


この日、薪を割った畑で採れたかあちゃん自家製のサニーレタスでサーモンが食いたいと言った俺にかあちゃんが造ってくれた料理が下の写真である。どっかから調達してきた筍と鳥の手羽先の煮物もうまかった。ビールの後ろに隠れているのが法事で使った二見饅頭である。小さいので盆に乗せやすいらしい。
家は3代目が潰すと言われることがあるが、船を継げなかった俺は親父に孝行できなかった分、かあちゃんが好きなことができるようにしたいと思っている。兄貴は医者になり、嫁さんの実家の近くで相談もなしに開業してしまいよったので、結局は俺が4代目になることになった。まあ初代が分家したほどの家である。次男が家長になるのも良いのではないだろうか。
親父が死んだ二日後、親父の葬式は俺の誕生日だった。俺の中で何かが芽をふいたように感じた。大工の叔父と話した時、「親父が全て正しかった」と言った俺に「お前ら親子は本当に・・・」と言って叔父は泣いた。
遠い将来、俺があっちに行ったとき俺はどんな顔をして親父に会うだろうか。この記事を書いている今日の朝、親父の葬式の夢を見た。法事をしたからだろうか。夢占いを見てみると、「独立の暗示」ということだそうだが、一体何から独立するというのだろうか。
親父に会った時、多分まずは土下座をして謝ろうと思う。親父の遺伝子を色濃く継ぎながら親父が死ぬまで何一つ成し遂げられなかったこと、そして船を継いであげられなかったのは後悔と言えば後悔している。
これからなんとか頑張って船を買い、親父の船の名前で「第二○○丸」と名付けられないかと考えている。親父の船の名前はかあちゃんと兄貴の長男の名前から取ったものである。仮に実現したとして、単なる自己満足だろうか。俺はそう思いたくない。

2 件のコメント:

  1. 愛情表現って、人それぞれですよね。
    流した涙の分、愛されたってことじゃなかなって思います。

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    1. コメントありがとうございます。
      それ以上に殴られましたがw 今思うと教育の一環だったのだろうと思います。

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