2017年5月7日日曜日

実家帰省後日譚Ⅵ 4代目 そしてこれから

(For English users, there is an English entry: here)
東京に戻る前日のこの日、島では祭りが行われて毎年恒例の行事となっている魚つかみ券が子ども達に配られる。
昨年は中学坊主ならではの生意気さで「そんなもの行きたくない」と言い放った甥っ子に、「金もかせげねえくせにただでもらえるものがあるんだったらもらって来いっ( ゚Д゚)」と強制的に行かせたが、今年はうちの畑への道を拡張する工事を手伝わせることにした。
身長はある程度になってきたが作業着が身に付かない甥っ子である。


以前にも書いたが、俺の兄貴は医者である。しかし長男なので当然家を継ぐものと思っていた。それもあって俺は当然のごとく自分の家を自分で作るものだと思っていた。
ある出来事があって兄貴と大喧嘩した俺はことごとく兄貴からの連絡を無視し、親父の葬式の日まで口も聞かなかった。
親父が亡くなる一年前、親父に兄貴が嫁さんの実家近くに借金をして病院を開業したことを知らされた俺は、親父にかあちゃんを可能な限りサポートすることと、東京が疲れたらいつでも帰って来いと命ぜられた。兄貴に関しては別の家を持つことになったから継がせられないだろうとも言われた。ちなみに呼吸器をつけていた親父は筆談とのどから漏れる空気音で必死に俺に最後の命令を告げた。
その後、かあちゃんは親父と示し合わせていたかのように俺に実家の全ての相続をまとめるように話をまとめだし、俺も時間を置いて考えて後を継ぐことに同意した。
(写真解説:へっぴり腰でおそらく初代から受け継がれた片側が折れているつるはしを振り下ろす甥っ子。こいつは兄貴の病院を継ぐつもりで進学校に進む準備をしている。魚つかみに行っている長女と次女はどうかしらんが、こいつもどうやら別の家の子となってしまうようだ。)


親父の話を書いていて、一つ思い出した。親父の最後の遺言は「15分前に職場に行き、汚い仕事も厭わずしろ」だった。すまん、親父。忘れてた。
通夜の日に再度兄貴と大喧嘩になったが、兄貴は「自分の子どもに後を継ぐのを強制するなどできない。人間は自由に生きるべきだ」となまっちょろいことを抜かしてた。まあ一理あるかもしれないが、自分が取る道が親父にどのように受け止められるかなど考慮できないという意味で他人に対する配慮に欠けている点で、こいつは医者になってつくづく良かったのだろうなと思う。
(写真解説:今回の拡張工事は俺もみよう見まねで行ったため、実験的なものではあったが多分ここをトラクターが安全に通れるようにはなったと思う。ちなみに手前が甥っ子が削ったところ、奥が俺が削ったところである。ところどころ地面から出てくるトカゲに気を取られたりしてたが、最後までよく頑張った。褒めてツカワス。)


今現在、手元に持っているものが俺には何もないが、かなり俯瞰して考えるに国というものは家族の集まりなんだと考えるに至った。核家族化は国を弱体化させ、少子化問題を深刻にしている一因になっているのではないかと真剣に思う。
もし、こんな俺でもできることがあるなら、どのような形であれ家系を守ることなのだと考えている。まあ嫁の来ては未だ見通しが立っていないがwww
(写真解説:姪っ子どもが取ってきた魚を捌いて今回の最後の食事にした。7匹の魚から取れた臓物の煮込みは酒飲みには堪らない逸品である。俺と甥っ子が土方工事をしていた丁度その頃、他の全員は祭りを存分に楽しんできたらしい。)


家の前の道が完全に渋滞し、やることのなくなった俺は甥っ子に薪割りを手伝わせた。田舎で生活をしたことのない甥っ子には珍しい経験だったらしい。俺も今の甥っ子と同い年ぐらいのころから薪割りをさせてもらえるようになったのを思い出す。
翌日、家を出る直前にもう一度薪割りを甥っ子に指導した俺は新幹線で東京に戻り、その足で帰省前に整備に出していたバイクの受け取りに行って荷物を実家で奪ってきた網用の紐で縛ってアパートに戻った。
前輪と前輪ブレーキの交換と利かなくなっていた後輪ブレーキのオーバーホール後の我愛車である。
年間の半分を実家で、半分を東京で過ごすようにするという俺の野望はまだ始まったばかりである。

0 件のコメント:

コメントを投稿